第3回 2022年7月
五勝手屋のある江差町で歌い継がれる『江差追分』という民謡をご存知でしょうか。北海道の小さな田舎まちの唄でありながら、全国の民謡の中でもっとも難しいと言われ、“民謡の王様”との異名を持つ、江差町の文化財です。
かもめの鳴く音に
ふと目を覚まし
あれがえぞ地の
山かいな
かもめの声で目を覚ますと、かなたにえぞ地(北海道)の山々が見えた、と江差追分は唄います。では、目を覚ました者は、どこから山を眺めているのでしょう。答えは、船の上からです。では、船とはどんな船でしょう。それは、『北前船』です。
北前船とは、江戸~明治時代にかけて日本海沿岸及び瀬戸内海と北海道を結び、海運を担った船のこと。江戸時代の中頃から産業が発達してくると、おのずと流通も活発になり、日本海をめぐる北前船の役割はどんどん大きなものとなっていきました。
そうして、江差のまちにも活発に往来した北前船は、数々の品と共に江差追分のもととなる唄も連れてきました。唄は、船乗りの口から江差に渡ったあと、唄うものの職業や生活環境で節回しに違いが生まれ、たくさんの流派に枝分かれしていきます。枝分かれした先で生まれた歌詞の数は千とも二千とも言われ、この数から、唄がまちに深く浸透し、幾重にも発展していった様子が伝わります。
これらの唄は明治に入って、その膨大な歌詞と十人十色・各人各様の唄い方を統一し、今日まで歌い継がれる『正調江差追分』へ一本化します。その後、幾度かの民謡ブームで注目を集め、昭和38年からは全国大会がスタート。日本各地で親しまれるようになり、現在江差追分会(昭和10年発足)は全国に120を超える支部を持ち、約2000人の会員が在籍しています。しかも、愛好者は日本を飛び出し海外にも大勢いて、ブラジル、サンフランシスコ、ハワイなど、世界中で5つの支部が運営されています。
第一回江差追分全国大会の様子。
ところで、江差追分に使われている『追分』という言葉。“追分節”ともいい、唄のジャンルをあらわすものに使われていますが、もともとこの言葉には「牛馬を追い、分ける場所」という意味があり、そこから発展して、「道がふたつに分かれる場所」、特に街道の「分岐点」を指す言葉になりました。
江差追分は、この分岐点の代表的なもののひとつ、信州の中山道と北国街道の交わる宿場町(現在の軽井沢町)が起源と言われています。この宿場町は『追分宿』と言い、峠を足で超えてきた旅人や商人が、いっとき宿の座興である三味線と唄で体と心を休ませる場所でした。そして、ここで耳にした唄が彼らの口から全国に運ばれ、それぞれの追分節へと発展していくのです。
現代の生活では、本来の意味合いで「追分」という言葉を使うことはあまりないように思います。しかし、「分岐点」ということで考えてみると、今も“追分”を感じる場所には、誰しも日常的に触れているのではないでしょうか。
それはたとえば、どこかのまちへ遠出した帰り道、このトンネルを抜けたら地元に帰ってきた安心感が湧く、といったことや、子ども時代、隣の学区との境界線より向こう側は、同じ町でも未知の世界だった、といったことなど―。
実際に道がふたつに分かれている場所以外でも、日常的に精神的分岐点、あるいは境界線があって、それがかつての時代の“追分”に近いものなのではないか、そんなことを、ふと思います。
道がふたつに分かれる追分は、反対から見ると道がひとつに落ち合う場所、とも取れます。これは追分宿を筆頭に「追分」と名の付く場所が、別れと、そして出会いの場所であることを示していますが、江差追分の歌詞も多くが出会いと別れを唄うものです。
その歌詞をたどるたび、「追分」という人々の情緒をふるわせる場所で生まれた唄が、巡り巡って別れと出会いを暗示する、もともとの意味を表現しているような、そんなつながりを静かに感じるのです。
~風濤成歌-江差追分-より~
蝦夷へ行くときゃ 涙がこぼる
帰るものやら別れやら
情けないぞや 今朝降る雪はネ
主の出船を見せもせず
泣いてくれるな 出船のときは
綱も掟も 手につかぬ
ならばこの身を かもめに変えて
後を追いたい 主の船